藤岡の赤間屋

学生時代(昭和40年代)岡山から東京秋葉原まで出かけるのは大変だった。
東京〜大阪間は新幹線が完成していたが、東京の宿がなかった。
が、姉の(当時)フィアンセ(今旦那さん)が宿舎にしていた場所に転がり込めることになった。
そこが、「あかまや」であった。
2回行った。
一回目は、冬休みに姉と。2回目は春休みに単独で。
東京で、生まれて初めて国電に乗ったとき、その加速が(岡山近辺電車のようなちんたらしたものでなく、)物凄くてたたらを踏んでしまった。
浅草へ上野経由で出て、準急で東武日光線藤岡駅まで乗った。
準急電車は、今でも同様運用している快速型(2扉)の準急運用であった。
『運が良かった。3つドアは寒いんだ。』と迎えに出て頂いたフィアンセがおっしゃったのを覚えている。(し、今でもそのとおりだと思う。)
あかまやの女将が、気さくな方で、息子さんが大東文化大学に合格したことを喜んでいたから、今の小生の年代頃だったか。
藤岡を拠点として、秋葉原へ出かけた。
東武線は、ローカル・・・という感じで、北千住で国鉄に乗り換えたのだが、これが現在の北千住の雰囲気とは大違いで鄙びた乗り換え駅であった。
秋葉原信越電機でニキシー管電卓ジャンクを購入したことを覚えている。
どこかを押さえていると動作する、ような品物だった。
春の2回目の東京遠征が終わり、東武電車車上から(たしか)蒲生駅を通過する頃、もう東武線に乗ることは生涯無いだろうな・・・なんて思った。
ら、今、毎日毎日東武線で通勤している。
また、あかまやさんは、現在も検索でヒットするので、商売繁盛のようでいらっしゃる。ご同慶の至りである。