長老の記憶

朝日新聞天声人語で、「あさま山荘事件」50年経過が取り上げられていた。
50年前、学生寮備え付けのTVで朝食・昼食・夕食時通してTV中継ぶっとおしで、やっていたことを覚えている。

人類救済の美名の基に閉鎖的な組織内で暴走する構図は、古今繰り広げられてきた。
組織の範囲が「部族」程度に収まるような初期の人類社会であれば、過去の経緯に詳しい「長老」が記憶に従った裁定を下して事足れり・・・といったこともあっただろう。
残念乍ら、人間には寿命があるので、経緯の生き字引であった個人も故人となれば、烏有に帰す。
過去を学ぶ記録が記憶に勝るのはこの点。
主要宗教は、全て書物で考え方を残し、後世はそれに従ってきた。

往々にして見られるのは、自らの(たかだか)百年間にも満たない程度の知見を、勘違いして、我こそ正義なり・・・と行動する輩。
継続する歴史の中の泡沫(うたかた)であることを忘れてはならない。