北槎聞略と漂巽紀畧

北槎聞略(ほくさぶんりゃく)は、桂川甫周が大黒屋光太夫らから聴取した内容などをもとに著した漂流記・地誌。
漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)は、河田小竜が、中浜万次郎から聴取した内容などをもとに著した漂流記・地誌。
元伊勢の船頭光太夫は、1782年から1792年の間、太平洋漂流後露西亜で過ごした後帰国し、大黒屋光太夫を名のった。
元土佐の漁師万次郎は、1841年から1851年の間、太平洋漂流後米国で過ごした後帰国し、中浜万次郎を名のった。
共に鎖国中の江戸時代のことである。
同じように漂流した運命の他の人間も居たが、両名のみ名が残っている。
漂流先でのふるまい等の人間性等において、言葉が通じない相手に評価された結果であろう。
太夫は、ユーラシア大陸西端のサンクトペテルブルグまで陸路で移動し、時の女帝エカチェリーナ2世に拝謁・許可を得た後、帰国した。
万次郎は、救助船の船長に見込まれ米国で教育を受け、世界一周もした後、帰国した。
両名とも、帰国後の顛末記を述べており、それぞれの見聞集が上記資料として残っている。
ここで注視したいのが、時の江戸幕府の扱いである。
それぞれ江戸に留め置きながら、その力を彼らの生きている時代に即したように十分に発揮させていないように見受けられる。
当時の身分制度がそうさせたのであろうが、狭隘な視野の為せる業としか言いようがない。