(1974年)8月3日(土)晴、9日目

6:20に起きた。出発は、6:45。フロント無人でついに4F還らず。まあいいさ、チップをやらなかったんだから。
今日は、ディジョンにいた姉の旦那さんの妹さんに会うことを目指す旅。
彼女は、Dijon大学の友人の女子寮に滞在中とかで、住所を事前に知らせもらっていた。
7:45発ニース行きは満員!1等も!Dijonまで便所の前で立つはめになってしまった。
こいつは困った。どこに行けばいいのかな?・・・と思ったのはDijon駅。
始めに改札口でたところおじいに聞いたら、バスに乗れというのが分かったが、後がだめ。
インフォメーションに行ったが、取り付く島もなし。でぶらぶらしてカフェの老人に聞いていたら、旅行者らしい人がインフォメーションでバスの番号を聞け言ってくれて、またインフォメーションへ行った。
そこでは何も貰えなかったが、おばさんがボーイスカウト(?)の一団に紹介してくれて、ツアリストインフォメーションの建物に案内してくれた。
ここで、10ドル(小切手)45.5F換えた。
そこで、地図を貰い、1,2,3のバスに乗って通りまで行けと言われたが、バスの乗り方が分からず、歩いていくことにした。
大体その通りまで来たなと思ったら、日本人の二人連れと出会い、9番のバスで行くのだと教えられたが、まあシャボット・シャイニー通りに行こうと思って付近に着いたら、31番地が無い!
ちょうど、バス乗り場(1,2,3)があったので1番のバス(1.3F)に飛び乗った。
さて行けども、行けどもそれらしいものは見えず、とうとう分からんところで飛び降りた。
なおもまっすぐ行っていると、バスの停留所の前で一団の女子供にじろりっと見られた。
ガススタンドがあったので、店員に聞くと、ぜんぜん違う方向らしいことを言っていた。
しょんぼりして暑い中を引き返していると、先ほどの女子供がうさんくさそうに、見てくれた。
街の方々にジスカールデスタンのポスターの残滓があった。
エライ目をして停留所(もう一つ向こう)へ着く直前にバスが通り過ぎて、うさんくさそうに見てくれた女と子供が降りて来やがんの。あー、恥をかいた。
そこに、またバスの来ないこと。さんざん待って、やっと飛び乗って(1.3F)シャボット・シャイニー通りまで来たら、今度はトビラが開かない。あーフランスは、パリの地下鉄だけでなく田舎のバスまでも手で開けないといけないのか。
で、9番、また入れ違いでバスが出た後で、待っていると先ほどの二人の日本人とまた出会った。
その人達に大体の女子寮の位置を聞いて。行くと、今度は細部まで分からないのでまたまた今度は違う日本人の二人連れに聞いて、ようやく到着できた。
この女子寮は男子禁制ではないのだ。
301号室に行ったが居ないので、ロビーでリュックに腰掛けてこれを書いている。
バスを待っているときにフランス人の運転する車で駅のほうに行っていたのが、女子寮の住人、神奈川さんだったらしい。
その後、おじさんとおばさん(管理人らしい)のロビーから追い立てられて301号室の横で待つが帰ってこない。しびれを切らして、(翌日10時再度来訪の)置手紙をして帰ることとした。
折悪しくバス停前まで来たらちょうどバスが出た後、次のバス(1.3F)で、案内所前まで帰り、YHの案内書にあった5番、6番バスの内ちょうどあった6番(1.3F)に乗車。
これが、地図にあるYHと全然違う方向に行ってしまったので、途中で降り、駅に引き返そうと思って待っていたら5番のバス(1.3F)が来たので乗ったら、なかなか、駅の方に行かない。ついに終点まで来てしまって、まだ乗っていると、運転手がやってきて「降りろ」
と言っている、らしい口調。
ここで挫けては、日本男児ならずと思って、日本語でやり返した。
自分が行きたいのはここだ。と言って地図を示すと、運転手は、ここがYHの前だ、と言っている様子。で、実際、前だった。メルシ、と言って降りた。
教えてもらった、それらしい建物に近づくと、おおなんと日本人が居るではないか。やはりYHだったのだ(20F)
牛乳(1.35F)←安い、1lだよ、パン0.8F。
宿帳記入時、フランス人は「ハ行」発音ができないことを発見。
単声では、「はひふへほ」を教えると言えるのだが、単語になると何故か言えない。
YHの部屋に入ってすぐ、水を0.5lほど飲んだ。おかげでシャワーを浴びた後下痢がぶり返した。
ここの便所は、しゃがむのだ。トイレットペーパーは、ロールではなくツル紙の1枚取りなのだ。
YHの部屋は4人部屋、2段ベッドではないのだよ!
夕暮れ、なにか賑やかな音がする車が通っている・・・と思ったら、同室の外人が、「アレは、結婚したて"just married"」と教えてくれた。空きカンを車の後ろに紐で括って、いつかテレビで見たことがある、ことを本当にしていた。