基本的な普遍性の共有

人間は、自分のことに最大の関心があることは言うまでもない。
如何にしてトクをするか・・・ということに粉骨砕身している。
そのレンジは、毎時、毎日、毎年、の短長はあろうが、同じことを目指している。
数々の情報に接し、色々な本を読む、ということは、読者本人がその社会においての位置を再確認することを目的とするものであると思う。
これで、良いのか。修正すべき点はないのか。
いわゆる世間の中で過ごす我々にとって当たり前のことである。
一番共感を得られる内容が、世論となって社会観を構成する。
新聞は、それを表現する一種の手段である。
どの新聞にもある「読者の声」欄は、採り上げる方も読む方も、今の断面を表すことにおいて、一定の濾過装置を経た内容となっていることが期待される。
読む人の琴線に触れ、多く人々の共感を得た内容は、社会のありようも変えることができるような力を持つ。
たとえ、その人がそう感じても、表現が稚拙あるいは陳腐な場合は、残念ながら「なにいってんだ、こいつ」という消極的な反応で葬りさられる、即ち普遍性を持ち得ないことが多いので、時間のフィルタは実効性を持つ。
時間的、空間的に人間として生きることに対して、何が基本かを常に問いながら生きることができたら幸せだ。